一般財団法人 飛騨福来心理学研究所
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福来博士の実験に協力した念写能力者と念写の実際
神通力とは・・・『心靈と心祕世界』「序」より引用
私は明治43年以来の心霊研究によりて、神通力の存在を実験的に証明することが出来た。
神通力とは、物理的法則を超越して活動する力である。
而も此の力は人間の心と感応して知的に働くものであるから、之を物理的法則に従って機械的に働く物質力から区別する為めに靈と名づけられて居る。
福来友吉著『心靈と心祕世界』「序」より引用
(一部、旧漢字を新字体に直しています)
福来友吉博士の言われる「 靈 」について、山本健造博士は哲学的に説明されています。
神通力で大勢の病や悩みを癒して来たからこそ、神秘に潜む原理を探ることができたのです。
その原理を生涯かけて研究し、ついに『六次元弁証法』として完成させました。
山本健造博士は常々、『神秘とは、原理がわからないから神秘であり原理が解れば神秘ではなく、誰にでもできる』とセミナーで繰り返し話されました。
『生命エネルギー誘発セミナー』では、原理をわかりやすく説き、さらに実践的直接指導を行っています。
直接指導を受けた方々の体験談は、六次元会ホームページ(姉妹サイト)で一部紹介されています。
念写能力者「長尾郁子」の日常生活
念写能力者長尾郁子(ナガオイクコ)は、旧津軽藩士長尾与吉氏夫人で明治4年10月山口県徳山に産まれ、父は桜井番香と言って、徳山藩の家老職であったが廃藩後、子爵(ししゃく)毛利元秀の家令となった人です。
母は萩藩士能野又左衛門氏の長女貞子です。
郁子が12歳の時、毛利家の観月会に招かれて和歌一首と所望されて即座に、
眺めやる心の果ぞなかりける
高輪沖にすめる月かげ
と咏じて毛利子爵より賞を戴いた事は有名です。
17歳で司法官である夫君与吉氏と結婚して各地を巡り、明治43年6月に丸亀区裁判所監督判事として丸亀に転任して来たのでした。
郁子は4名の子女をもうけたのですが、長男の死去の悲しみが彼女の信仰心を呼び起こす動機となり、天照皇大神宮や観世音菩薩、不動明王等は彼女の最も信仰した神仏でした。
信仰心が強くなると精神統一が深まる傾向がありますが郁子もそうでした。
明治42年頃、長尾氏が宇都宮市で弁護士を開業していた時、「宇都宮市に大火災が起こる」と家族に語り警戒していたところ、近所のホテルから出火して全市の大半が焼けたことがありました。
彼女は毎朝神前に御灯明を捧げ供物を供えて、30分以上は瞑目して祈念をこめるのが日課でした。
その頃、御船千鶴子(ミフネ チヅコ)の透視が有名になったので、郁子が家族を相手に戯(たわむれ)にやって見ると的中することがあり、一心に神仏に祈願して練習するに及び、11月には福来博士も驚嘆するに至りました。
この透視の実験中、次に述べるような、いきさつによって、明治43年12月26日、振古未曾有(しんこみぞう)の念写現象が福来博士によって発見されたのです。
長尾一家は世にも不思議な現象として驚き、かつ喜び益々強い信仰に入ったのです。
発見者の福来博士も意外な現象に驚き、まさか、夢ではないかとまでに怪しみ驚いたのでした。
山本健造著『念写とDr.福来』福来出版 引用
哉天兆の3文字を同一条件で2枚撮影して、未現像のままその1枚を厳封して長尾夫人に透視させて的中した。
写真館で2枚を現像したところ、福来宅に保管したBと透視に使用したAを比較すると、Aに光のカブリがあることを発見し、透視の精神力が感光したものではないかと疑ったのである。
山本健造著『念写とDr.福来』福来出版 P103から引用
念写発見の動機
名刺の文字や、毛筆の文字はよく透視できるが、未現像の原板の文字は透視できるか、どうか、試験して見ようと考えた福来博士は奥さんに「哉天兆」の三文字を白紙に書いてもらい福来博士が、全く同一条件で二枚撮影して未現像のまま別々に厳重に密封し封印を捺して一箇は長尾夫人に送り、一箇は比較用として自宅に保存したのです。
その透視は的中しました。
2枚の乾板を同時に、同一液で現像したところ、透視した原板には薄い光が感光していたのです。
福来博士は透視の際に精神力が感光したのでないかと思ったのです。
この推理が的中したのです。
山本健造著『念写とDr.福来』福来出版 P103から引用
透視能力者として、御舶千鶴子嬢よりもずっと以前から、世に知られて居たのは三田光一氏である。併し念写をやり出したのは長尾夫人の実験を伝え聞いてから後の事である。
だから、三田氏は透硯能力者としては千鶴子嬢の先輩であり、念写能力者としては長尾夫人の後輩である。
福来友吉著『心靈と神祕世界』福来出版 P118引用
山本健造・山本貴美子【共著】『物質と意識の統合の彼方に~ 宇宙統一理論の試み』福来出版 P133引用
福来と三田の行った実験「空間超越の念写」
1929年、福来は日本地下水協会社長の青木止真氏その他6名と大阪市東区にある地下水協会事務所に会合して、実験の準備を整えました。
事務員の村山芳松氏が写真屋から一ダースの手札型(てふだがた)乾板(かんぱん)を買ってきました。
この乾板に十字型の封をして印を押しました。
これを事務所の金庫に入れて、鍵は青木社長が保管しました。
念写の題目は、福来はイギリスのホープ氏の像を提出し、あとは三田氏の自由にまかせました。
三田氏は1月1日、神戸にある三田氏の自宅から大阪の事務所の金庫の中にある乾板に念写しました。
そして1月8日、約束通り一同は地下水協会に集合し、三田氏は次のように実験報告しました。
簡単に書くと「1枚目、2枚目、3枚目の3枚には馬が写っていると思います。
次に、私は英国のクルー市に行き、ホープ氏を見ました。
氏は片手をテーブルの上に置き、犯すべからざる権威のある眼差しで窓から外を見ておられました。
その姿を5枚目に写しました。
青木社長の心中にあるものが12枚目に写るように念じました。
最後にクルー市からロンドンに帰るついでに、郊外の景色を見てきました。
湖水があり、森があり、広々した草原があり、夕焼けして良い景色でした。
それを6枚目に写しました。
精神統一を終わって時計を見ると1分40秒を過ぎていました。」というものでした。
報告が終わった後、一同は金庫から乾板を取り出し、封印を点検したがなんら異常はありませんでした。
事務所に暗室がないため、福来は乾板を自宅に持って帰り、写真師を招き現像させました。
その結果、1枚目、2枚目、3枚目にはそれぞれ馬の絵が現れ、5枚目に人物、6枚目に風景、12枚目に青木秋堂の文字が現れました。
三田氏の報告通りの結果であり、福来は一同に知らせました。
福来博士の結論
福来は200回にものぼる念写実験の研究から次のような結論を導きました。
観念は生物なり
観念は要求なり
観念は力なり
観念は空性なり
というものです。
あの頃は今日ほど学問も進歩していなく、現在の学問の立場から再吟味する必要があります。
山本健造・山本貴美子【共著】『物質と意識の統合の彼方に~ 宇宙統一理論の試み』福来出版 P132引用
遠隔地にある乾板に念写が成功したことは、人の心は空間超越であるといえる。
時間超越の念写
大正6年(1917)に岐阜県の坪井秀宅で、三田光一と福来がはじめて会ったときに福来は三田に次のような実験を頼みました。
福来は、筆で「至誠」と書いて三田に示し、「意識は空間超越であるから二枚の乾板を別々の所に離しておいて、つなぎ合わせれば一枚のものとなるように念写ができるはずです。今晩はその実験をお願いできませんか」と頼みました。
三田は承諾して2枚の乾板を1メートル程へだてて置きました。
三田は念写すべく一心に念じ「確かに写った」という感じがあったのに、現像してみると何も写っていませんでした。
その2日後、名古屋の県会議事堂で新聞社が主催して念写能力者三田を招いて、念写の公開実験が行われました。
念写の題目が3つ提出され衆議の結果、時の総理大臣の桂公の像を12枚重ねの乾板の中央の6枚目に念写する事に決まり、それは見事に成功しました。
このとき福来は一般大衆の中に入っていました。
ところが、思いがけないことが起きたのです。
5枚目と7枚目とに、何か写っているのです、2枚を組み合わせてみたら、2日前に坪井宅で失敗した文字の「至誠」の文字だったのです。
これは、2日前に念じたエネルギーが一時休んでいて出現したもので、三田も全く忘れていたのでビックリしたのです。
この実験で、時間と空間を一度に超越し得る事を証明した事になります。
2日前に福来が「心は空間超越です」と説明した時に、三田の潜在意識は「それなら時間も超越のはずだ」と思ったので、時間、空間を一度に超越する事にして、2日前に念じた際は出現しないで保留になり、次の機会を待っていたと思われます。
この念写の実験から次の事が導き出されます。
1、意識場は電磁波レベルの奥にあり、しかも目的の場所では乾板に作用して、念写現象を起こす。
2、意識を空間の窓から見た時、意識場と云う。
3、意識場は時間の中にありながら時間を超越する。
4、意識場は自由性(意識の自由性)を持つ。
5、意識場は目的を持つエネルギーである。有目的エネルギーである。
6、意識場は目的を果たそうとする(欲求を果たそうとする)。
7、空間、時間、志向、エネルギーが認識の形式であると同時に存在の形式でもある。
8、意識は五官を用いないで、時空を超越して認識を起すことがある。透視はその実例である。
9、意識場は光速を超える(この実験では不十分であるが、遠近に関係なく、思った時は、達した時である)。
10、意識場は空間の中にありながら空間を超越する。
11、意識自体は空間、時間、エネルギー、方向の存在形式を持つから乾板に感光できる。
12、物質は意識と同様の存在形式を持つから、意識によって変化させられる、即ち、念写が起きる。
13、意識は脳内で消えてしまうことなく、外界に拡がって物質を変化させるという事は物質の存在形式と同じ意識の存在形式を持つといえる。
14、意識は乾板を認識し、それに感光させるという事は認識形式と存在形式を兼ねて持つ証拠である。
15、故に認識形式と存在形式は一致する。
山本健造・山本貴美子【共著】『物質と意識の統合の彼方に~ 宇宙統一理論の試み』福来出版 P325~328 引用
2日前の実験テーマ「至誠」の文字が、2日後に念写されたことは人の心は時間超越であるといえる。
森竹鐵子嬢の念写
長尾夫人に次ぎて現はれた念写の能力者は北海道の森竹鐵子嬢であった。
余は森竹鐵子嬢の念写を実験し、其(そ)の真実にして疑なきことを確かめたり。
依りて其の経過を録して、斯道の研究に資せんとす。
実験は4回にして、第1回は明治44年(1911年)2月28日に行はれ、第2回、第3回、第4回は同年4月9日に行はれたり。
第1回実験
明治44年2月28日午前10時より、余の宅に於て実験を行ふ。
余は手札形(てふだがた)乾板(かんぱん)を取枠に入れ、黒丸を書きたる小紙片を添へ、之を念写すべしとて能力者に渡せり。
能力者は取枠を机上に斜に立て、其の上に黒丸を書ける紙片を置き、之を凝視し念写せり。
実験は1分5秒に終れり。
能力者の言によれば、黒丸は乾板上に茶を帯びたる灰色を呈して現はれ、其の周辺よりは光線を放つが如く思はれたりとのととなり。
余は右の乾板を抽斗中(ひきだしのなか)に秘し、錠を卸し置き、夜間に至りて之を現像したるに、乾板上には直径1寸8分位の円形現出せり。
但し其の感光は甚だ稀薄り。
右の実験中、余は能力者の傍に居りて其の手許を監視し、何等(なんら)の怪しむべき点無きことを確認せり。
第2回実験
明治44年4月9日、午前10時半より、余の宅に於て実験せり。
余は手札形乾板を取枠に入れ、小紙片に黒丸を書き、之を念写すべきことを能力者に求めたり。
能力者は第1回と同様の方法にて念写せり。
実験は約1分30秒にして終れり。
余一は右乾坂を抽斗(ひきだし)に入れ錠を御し、午後9時頃に現像したるに、乾板上には直径1寸位の円形が鮮明に現出ぜり。(写真右側の円形)
余は能力者。手許を監視せり。
何等の怪しむべき点なし。
第3回及び第4回貸験
同日の午後4時頃より夕、第3岡及び第4回の実験を行へり。
余は手札形乾政2枚を取枠に入れ、小紙片に大の一字を書き、之を念写すべきことと能力者に求めたり。
能力者は前と同一の方法にて念写せり。
能力者の言によれば、凝視し居る内に文字見えざる様になりたれば、其の途端に実験を止めたるなり。
実験は孰(いず)れも約2分間にて終れり。
余は右の乾板を抽斗(ひきだし)に秘密に入れて錠を卸し置き、午後9時頃に至りて現像せり。
然る処(ところ)孰(いず)れの乾板にも、大の字が頗る明瞭に現出せり。(写真左側)
実験中、余は能力者の手許を監視し、何等怪しむべき点なきこととを確認せり。
以上4回の実験によりて、余は念写の事実なることを確認するを得たり。
福来友吉著『心靈と神祕世界』福来出版P105~109 抜粋引用
(当サイトでは旧字体を新字体に直している箇所があります。)
高橋夫人の念写
森竹鐵子に次ぎて、高橋夫人が現はれた。
夫人は明治44年5月7日、高橋宮二氏の誘導によりて初めて念写を実験した。
其の時は十字架を写したのであった。
其の後第2固にサの字、第3回に月に雲の形、第4回に一心の文字を念写し、孰れも成功であった。
其の後、高橋氏は所用ありて朝鮮に行って居たので、其の間、実験は中止されてあった。
所が、高橋氏は大正2年2月帰国し、其の8日に久々にて念写の実験をやったのである。
其の時の念写は文字と樹枝の形とであったが孰れも成功であった。
私は高橋氏の訪問を受け、前記実験の物語を聞き、非常に心を動かした。
そして同氏と交捗の結果、3回の念写実験をやって見た。
その内、第1回は不成功で、第2回と第3回とは成功であった。
今、第2回の実験だけを次ぎに紹介しよう。
第2回の実験は大正2年4月27日午後8時半頃、私の宅に於て行はれた。
其の模様は次の通りである。
私は手札形の乾坂1ダーズを新に買ひ求め、大学の心理学実験室の暗室内で、其の内から3枚を取り出し、次の如く包装した。
先づ3枚を重ねた儘(まま)、茶色の不透明紙にて2重に包み、次ぎに黒色の不透明紙にて2重に包み、ボール紙製の小箱に入れ、帯灰褐色の不透明紙にて之を包んだ。
更に之をボール紙製の大箱に入れ、十字形の帯封を施し、紙の繋ぎ目に封印を捺した。
而(しか)してこの実験用乾板を赤色の袱紗(ふくさ)に包み、日蓮聖人を安置しある厨子(ずし)に入れ、扉を閉鎖し、其の上に封印を施して置いた。
私は此の厨子を書斎に置き、私の最も信用する小里散陸氏をして其の側に居て監視せしめたのである。
午後6時頃に、夫人は私の家に来り、書斎に入り、乾板を納めある厨子に向って合掌し、一心不乱に題目を唱
へて居た。
私は夫人の後方に立って、其の挙動を見守って居た。
暫くすると、夫人は押入の戸を凝視して、次の如く言った。
「あそこに、妙法の二字が現はれて居ますが、先生に見えませんですか。」
即ち夫人は妙法の二字の幻影を見たのである。
そとで私は、此の幻影は夫人の守護霊即ち天狗の仕業による自動現象で、そして晩に行う実験と何か関係あるものと思った。
それで私は直に夫人に催眠術を施し、守護霊を呼び出して御伺ひを立てて見た所、果して私の想像した通りであった。
即ち守護霊は私の御伺ひに対して、次の如く御告げを与えた。
今晩の実験に於て、日蓮と妙法と法師との内で、妙法の二字が一番意味深遠であるから、それを念写せよ。
念写する時、妙法の二字を一度に出さぬ。一字づつ二度に出すから、二度に念写せよ。初めに妙の字を出しそれを念写した後で、法の字を出す。それは余の試験である。
よいか。二字一度にすることは容易なれども一枚の種板に、先に妙の字を写し、其の下に法の字を写す様にせよ。
少し頭が疲れるけれど、是も一つの試験である。
今までの念写には二字を2度に写したことがないから、余の試験として二字を二度に写させる。
よいか。それも試験である。
右の御告の内に日蓮、妙法、法師と言ふ語のあるのは、私が嘗て日蓮宗の信者たる夫人に向って、斯(かか)る語を念写の題目として実験することを勧めたことがあるから、守護霊の天狗は此等の語の内から妙法を選定して、念写の題目としたものと思はれる。
守護患霊が退いて夫人の人格に帰った時、彼女は熟睡から醒めた様にて、天狗の御告に就いて金く無知であった。
それで私が天狗の御告を彼女に伝え、その晩の実験には妙法の二字を念写するのであることを告げた。
実験は8時半頃から行はれた。
立合者は文学士 久保良英氏、文学士 高橋穣氏、高崎宮二氏、私の4人であった。
夫人は床にある厨子(日蓮上人安置)に於向って着席し、久保氏は私の渡した乾板を持ちて夫人の左側に着席
した。
両人の距離は約四尺であった。
夫人は精神統一に入り、次の如く独語した。
「妙の字が出ました。法、法。」
斯く独語しつつ、彼女は一字毎に念力を凝らす為めに力を入れるのであった。
終に「写りました」と言って、右側に倒れた。
彼女が精神統一に入りてから「写りました」と言ふまで、約7分25秒の時間が経過した。
そとで私は高橋、久保の両氏と共に、別室に於て現像に着手した。
3枚重ねの乾板の夫人に近き方より順次に1、2、3の番号を附して後、其の結果は次の通りであった。
第ー
1の番号を付した乾版は全然無感光。
第二
2の番号を付した乾板には第31図の如く筆力剛健なる妙法の二字が現出した。
尚其の外に乾板の全面に短き羽毛の如きものが渦巻の形をなして現出した。
第三
3の番号を付した乾板は全然無感光。
右の実験により高橋夫人の念写の事実であることが証明し得られた。
其の上、私は更に念写一般に関する問題として、次の重要なる二種の事実を確実にすることを得た。
第一
念写は3枚重ねの乾板の、前後のものに関係なくして、唯中央にある一枚のみに行はれ得るものであ
る。
換言すれば念写の霊能は空間超越である。
此のことは心霊問題に於て最も重大な意義を含むものである。
此の実験は己に長尾夫人の時に行はれたことであるが、其の実験法が十分厳密でないと云ふ批評もあって、幾分か疑問にされて居たものであったが‘高橋夫人の実験によりて愈(いよいよ)確実となったのである。
第二
乾坂一面に現はれて居る渦巻の形をなした羽毛の如きものは、高橋夫人の全く知らざる念写である。然らば此の渦巻は何物の仕業による念写であらうか。
私が其の後研究した所によると、右は全く守護霊、即ち天狗の念写である。
而も天狗自身の言ふ所によると、あの渦巻は彼の翼の一部にある羽毛を念写したものだと言ふことである。
要するに此の実験に於て、霊能者は妙法の二字を念写し、それと同時に守護獲の天狗が翼の一部にある羽毛を念写したのである。
だから、念写は必ずしも、霊能者自身の念力によりて行はれるものとは限らない。
霊能者自身の知らざる間に、守護霊の念力によりても行われ得るものである。
是れも亦、念写現像を説明する上に於て、予め知って置かねばならぬ大切の事実である。
実験後、夫人は大分疲労して居たようであったが‘、結果良好と知ってから、我に元気付いたのであった。
福来友吉著『心靈と神祕世界』福来出版P111~115 抜粋引用
((当サイトでは旧字体を新字体に直している箇所があります。))
武内天眞氏の念写
武内氏が自ら霊能者と称して、初めて私の許に来訪したのは大正2年12月の末であった。
私は氏に就いては僅に2回の念写実験を行ふただけである。
併し、其の内の一回は大変に興味深いものであるから、それを茲に紹介しようと思ふ。
大正3年3月21日の夕方、武内氏は私と一緒に晩餐(ばんさん)を取った。
それが済んでから、私達は心霊問題のことで10時頃まで話し続けた。
其の時、武内氏の念写気分が大分高まって居た様に見えたから、私は氏に実験することを勧めた。
氏は快く之に応じた。
そこで私は手札形乾板三枚を重ね、黒色の不透明紙にて包み、ボール紙製の箱に入れて之を懐中(かいちゅう)して居た。
そして、氏が平素愛読して居た大町梓月氏著『人の運』と言ふ書物の扉にある人の運の三字を、3枚重ねの乾板の中央にある一枚に念写することを注文した。
氏は先づ人の運の文字を三分間程凝視して居た。
次ぎに乾板入りのボール紙箱を私から受取って机上に置き、12分間程の精神統一によって実験を終わった。
私は直に乾板を取り、室の電灯を赤灯に代へ、武内氏の目前にて現像した所、第32図(写真)の如く人の運の三字が鮮明に出現した。
私は武内氏の念写実験を目前に見るを得たので非常に満足した。
所が赤灯の下で見た時には気付かなかったが、ハイボーに入れ、水洗してから後、電灯の下で見た所、膜一面に小き文字の如きものが沢山ある。
能く吟味して見ると、それは『人の運』の扉の次ぎのページに印刷してある桂月氏自筆の序文が写って居るのでるった。
私は此の文章の念写を生ずるに至りし心理を研究せんとて、武内氏に二三の質問をして見たが、其の結論は次
の如くであった。
(1)
桂月氏自筆の序文の念写は、能力者自身の全く知らぬ間に出来たもの、即ち潜在観念の念写であった。
(2)
能力者は一年程以前に、此の序文を数回読んだととがある。
だから、此の念写は其の記憶観念によりて生じたものである。
(3)
能力者は此の序文に如何なることが書いであったかを思ひ出すことが出来ぬ。
併し、念写には其の文章も書態も原物其の儘に現はれて居る。
だから、思ひ出すことが出来ずとも、記憶の完全であることが理解出来る。
福来友吉著『心靈と神祕世界』福来出版P115~116 抜粋引用
((当サイトでは旧字体を新字体に直している箇所があります。))
渡辺偉哉(ヒデヤ)氏の念写
渡部偉哉氏は今は中等学校の教論であるが、大正7年の秋までは山梨県南都留郡西桂村の小学校教師であった。
其の頃、氏は精神修養によりて念写能力を得るに至った。
其の実験は5回に及んで居るが、其の内1回だけ不成功で、他の4回は立派なる成績を得た。
今其の内で、第2回の実験だけを紹介することにしよう。
此の実験は大正7年4月22日に、渡部氏が奉職して居る小学校の敬師共同によりて行はれたものである。
其の模様結果は次の通りである。
(1)乾板購入
西桂小学校の訓導中野哲也、三浦義秀の両氏が4月21日、谷村町の薬店から名刺形乾板半ダースを購入した。
(2)乾板保管
中野、三浦の両氏は購入した乾板を封印した儘で小学校長狛俊英氏に預け渡し、狛氏は実験の始まるまで之を補完していた。
(3)念写実験
実験は4月22日、午後3時半から4時までの間に行われた。
実験室は小学校の一教室で、立会者は職員9名であった。実験室の壇上の中央に卓が据えられ、渡部氏は卓の後方四尺の距離に着席した。
9名の立会者は壇の前に着席した。先ず狛氏は乾板を卓の上に置いた。
渡部氏は無論乾板には絶対に手を触れぬのであった。
次に立会者協議の結果、念写題目として神通力(首部訓導芹澤氏の自書、第三十三図A)、考(額面の文字)、渡部偉哉(霊媒の名)の三題が選ばれ神通力を2枚目に、考を5枚目に、渡部偉哉を6枚目に念写することを霊媒に依頼した。
霊媒は神通力と考とに対して5分づつの時間で、渡部偉哉に対しては7分の時間で、実験を終わった。
(4)現像の結果
訓導米山耕夫氏が学校宿舎直室の押入を暗室に利用し、職員3名の立会の下で現像に着手した。
其の結果は次の通りである。
2枚目の乾板は8分の現像によりて神通力(第三十三図B)を現はし、5枚目は10分にして考を現はし、6枚目は10分を過ぐるも、何物をも現わさなかった。
右の如くして此の実験は美事なる成績を収めて終わったのである。
福来友吉著『心靈と神祕世界』福来出版P116~117 抜粋引用
((当サイトでは旧字体を新字体に直している箇所があります。))